ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_main.jpg
このバイクに注目
DUCATI
750 F1 PANTAH
1985model

ドゥカティ750 F1は日本車にない感性と頑張れば買える価格でイタリア車はじめての量販モデルに!【このバイクに注目】

Photos:
DUCATI

400cc並みの車重と250cc級の軽快なリーンは、4気筒で育ったライダーに馴染むまで違和感が募るスパルタンさが立ちはだかった!

ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_01

'80年代の大型バイクは既に日本車が圧倒的優位で、スポーツバイクではトライアンフやBSAにノートンなど英国勢は消滅していて、ドゥカティとBMWがかろうじて残っている程度。
BMWは空冷ボクサーがツーリングマニア向けで、スポーツライディングとなるとドゥカティのみ。
BMWは空冷ボクサーだけで一部のツーリングマニア向けとして捉えられていたので、スポーツライディングとなるとドゥカティのみ。
'70年代後半にマイク・ヘイルウッドがマン島T.T.で優勝したマシンのベースとなった、ベベル駆動のレジェンド、ビッグLツインの750SSが唯一日本製スーパースポーツに対抗する存在だった。
そのドゥカティがベベル駆動のOHCから、コグドベルト駆動に換えコンパクト化をはかった新世代エンジンでT.T.F-2マシンを開発。
強制開閉バルブのデスモドローミック実用化をはじめ、1950年代中盤から世界GPチャレンジへドゥカティを牽引し続けてきた鬼才タリオーニ技師は、それまでの概念をことごとく打ち破る超スリムでコンパクトな新型Lツインを設計したのだ。
クランクケースにスイングアームピボットを配置し、トレリスフレームでバイク全体を中型サイズにまとめる、現在のドゥカティ・エンジニアリングへそのまま受け継がれたベースが既にこのとき完成していた。
そして1985年、88mm×61,5mmの748ccまで拡大した750 F1がデビュー、4気筒をメジャーな存在にした日本メーカーを脅かすポテンシャルを垣間みせはじめたのだ。

ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_02

750F1として市販が開始されると、ドゥカティはアメリカAMAのデイトナへ出場、日本製4気筒勢と互角に渡り合うパフォーマンスをみせ、ファンを狂喜させた。
世界でプロダクションバイクのレースで、ルッキネリやフェラーリというイタリアの世界チャンピオンライダーによって圧巻の成績を収めた750F1。
日本でも市販が開始された750F1は、初めてのフルカウルでレーシングマシンそのままのフォルムという話題性で注目を集めた。
しかも200〜300万円以上だった"外車"が、175万円と高価ではあったものの手が届きそうな価格帯だったことも多くにその存在を意識させていた。

ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_03
ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_04
ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_05

新世代Lツインは、DNAでもある強制開閉バルブのデスモ(バルブを開ける側のみならず閉める側もカム駆動によるロッカーアームで引き上げる高回転でのバルブジャンプを抑えた独自の構造)のOHC駆動を、一般的なチェーン駆動ではなくクルマのエンジンでは実用化されていたゴムベルトに歯形を刻んだコグドベルト駆動としたのが最大の特徴。
そして前側の気筒が水平に近いため、エンジン前後長が伸びてしまうLツインのネガティブを解消する、クランクケース最後部にスイングアームのピボット軸受けを設ける画期的な設計だった。
これはアンチスクワットなど、加速時のトラクション効率を前提に含まねばならず、シャシーへのノウハウも積み上げてきたタリオーニ技師ならではの天才的な配置として後々多くが驚嘆するひとつでもある。
さらにこの高次元に効率を求める設計は、エンジンを強度部材としてパイプワークと組み合わせたトレリスフレームで、リヤサスをモノショックとするなどシンプルな構成によって、車重を乾燥で175kgというまさに400ccクラスの軽量へ収めることに成功していた。

ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_06
ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_07

これらの各コンポーネンツがお互いに強度部材として押し引きで釣り合う合理性は、T.T.F-2のマシン開発から積み上げた実績があり、旋回速度でライバルを上回るポテンシャルを強みでもあった。
しかし日本車に慣れた感覚には違和感だらけの走行フィーリングで、単気筒とコンロッド1本分しかエンジン幅が変わらない250cc並みにスリムな車体と175kgの軽さとなるとリーンは警戒心の塊りとなってしまう。
ましてや前輪が小径16インチと、250や400で小径タイヤを経験してきたライダーも、ビッグバイクでのハンドリングとなるとすぐには馴染めない。
しかし世界のトップクラスのライダーなら速く走らせられる……。
シロウトの手には負えないが、実はポテンシャルの高い孤高のマシン……ベベル駆動の時代にも言われていた、ライダーを選ぶマシンというイメージが、ファンが増えた時代ということもあってドゥカティは「スパルタン」なハンドリングというイメージがさらに定着していく傾向にあった。

ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_08
ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_09

日本製4気筒のように、エンジンを重心位置として安定感を構築、そのライダーを旋回中も安心させるハンドリングに慣れた感性からすると、エンジンの存在感が希薄な車体だけで走るようなハンドリングは確かに特異な存在と思われても仕方なかった面もある。
積極的に後輪へ身体を預け、前輪をこじらないようフロントまわりを後輪の軌跡へ追従させながら荷重を抜かないライディングは、他に例がないだけにいっそうの難しさを感じさせていたのは間違いない。
また空冷Lツインの70HP/9,000rpmと5.7kgm/5,200rpmのパワーフィーリングも、およそ加速感に乏しい超フラットな特性で、スロットル開度が大きく全開にしにくい面も手伝い積極的な操作へ誘導しにくかった。
ただ270°の不等間隔爆発によるコーナーからの立ち上がり加速で、出口まで広範囲に曲がり続けるポテンシャルを引きだせるこちに気づいた一部のライダーには、またとない醍醐味を味わえるマシンとして大きな魅力となっていた。
そうしたことが話題になったのも、従来では考えられないほどのライダーがドゥカティを体験したからで、日本のみならず世界でも新たなドゥカティストを生んでいったのだ。
日本向けには600SLパンタ時代から共通の日本電装製メーターだったが、年度を重ねるとそれもレーシーなイタリア製となるなど仕様はかなり変化していった。

ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_10
ducati_750f1-pantah_1985model_20260505_11

このドゥカティの乗りにくさ……言い換えればリーンなどライダーが操ろうとするときにみせる反応の変化は、軽くて超スリムという、本来はメリットとなるべき要素に原因があった。
それはタイヤだ。'70年代から200km/hオーバーが当たり前になってきたビッグバイクは、その速度域を250km/hからそれ以上までに達し、速度域と荷重に耐えるよう車体も重くなり、タイヤは250kgやそれ以上に耐える、しかも高速域で破綻しない構造となると、400ccクラスかそれ以下に軽量なドゥカティには過剰な仕様でグリップ感が希薄となる。
この乗りにくさを解決へと導いたのがラジアルタイヤの登場だった。
80年代終盤から'90年代へかけて、ミシュランを筆頭にヨーロッパのタイヤメーカーは次々と高速に耐え且つしなやかな吸収と広範囲に安定性を発揮できるタイヤを開発。
これを履いたドゥカティは、突如ビギナーが乗っても違和感のないハンドリングへと激変したのだ。
言い換えればラジアルタイヤがもたらした曖昧さと、そこへきてオーリンズやホワイトパワーなどサスペンション・メーカーの高度な仕様が市販車へ標準装備される流れも加わり、本来のポテンシャルがテクニックを必要とせず発揮されるということになった。
この高評価は瞬く間に広まり、バイクブームの波に乗ってドゥカティは日本での販売数を急激に伸ばしていった。
こうしてライダーを選ぶ孤高のブランドから、誰でも乗れるイタリアンスポーツへとイメージも変わり、ドゥカティはそこに可能性を見出し、後にネイキッド・アップライトのモンスターを投入して成功を収め、熱きイタリアンとしてポジションを高めていったのだ。