イタリア最古の古典的メーカーの
究極の追求では気鋭の存在
イタリア最古のモトグッツィ。1921年に生産をスタートさせたが、ルーツはそれより前の第一次大戦。
イタリア空軍で出会ったバイクのメカ好きとレースライダー、そして資産家の息子の3人が、意気投合して戦争が終わったらオートバイメーカーを創業しようと誓ったが、ライダーが飛行機事故で亡くなってしまう。
仲間の遺志を果たそうとグッツィは当初からレースに没頭。優勢だった英国勢をイタリアンが初めて制覇し、注目の存在となった。
モトグッツィのロゴが鷹なのはイタリア空軍の紋章からきているのだ。
ただ生産車は当初から水平単気筒がベース。2気筒も加わったが、人気は信頼の水平単気筒で第二次大戦後の1950年代まで健在という、イメージは古典的存在だった。
しかし戦後にレースへ復帰すると、1957年に頂点500ccクラスにまさかのV型8気筒GPマシンを開発、12,000rpmの超高回転から285km/hという当時は途方もないパフォーマンスを見せつけた。
工場敷地内にオーバルの超高速テストコースがあり、風洞実験装置まである、世界で類をみないオートバイメーカーだったが、市販車のほうは開発もパッとせず。
そんな非現実的な運営に、レース撤退となり行く末が案じられたまま迎えた1960年代終盤、軍用3輪車と警察用大型オートバイのプロジェクトを受注、これに応えたのが縦置きV型2気筒+シャフト駆動だったのだ。
警察の特需に対応したバイクが
MOTO GUZZI の運命を変える!
モトグッツィをスポーツバイクのメーカーとして甦らせたのが1971年のV7 SPORT。
1968年に警察用大型バイクとして完成したV7は、イタリアだけでなくアメリカはカリフォルニアの白バイとしても採用され、この特需で弾みがつき生来のレース好きの血が騒ぎ、大型でドッシリしたベースから耐久レースを疾駆するマシンへと変貌。
いっぽうベースのV7は、大型のツアラーとしても可能性を見出され、後にカリフォルニアと呼ばれるクルーザーがヒット、一躍アメリカで人気のブランドとなったのだ。
耐久レースへのチャレンジが
ルマンを生み世界へファンが浸透
そしてV7 SPORTは、メーカーだけでなく人気の耐久レースに挑戦するチームも増え、この熱き心をカタチにした850ルマンが1975年に誕生。
日本へも輸入が開始され、まだ成果を上げていなかったドゥカティより先に、孤高の個性派スポーツのイメージで、大人のライダーたちの心を揺さぶったのだ。
ホンダCB750フォアがデビュー、カワサキZ1も続いた1970~1975年は、世界中が4気筒ブームに湧き、英国勢にBMWはみる影もない状態。
そこに一矢報いていたのがドゥカテイ750SSとグッツィのルマン。
なかでもグッツィの縦置きVツインが織りなす、超高速域でもブレることなく直進から高速コーナーを駆け抜ける超弩級の安定性が伝説として語り継がれた。
低速もフラつきが一切ない安定性と曲がりやすさも好評、実は縦回転のクランクシャフトから生じる反トルクで、右コーナーが苦手な面もあったが、それがまたグッツィ乗りにマニア心を焚きつけていたのだ。
まさに唯一無二の個性……グッツィ乗りはそこが誇りだった。
そもそもバイクファンに多い、マイノリティ好き、わかりやすくいうと判官贔屓の数も半端なく、イタリアンスポーツ好きのファンも確実に増え、ルマンはお得意の空力特性から各部のリファインで1978年にII型を発表、熱き思いを継承し続けていた。
しかし'80年代ともなると、日本製スーパースポーツのパフォーマンスは先鋭化を邁進し、モトグッツィも1984年のルマンIIIで区切りをつけ、後のデイトナなど独自の手法でハイスピードが楽しめるグッツィ・ワールドの模索をはじめる。
そうした先進部分とトラディショナルなV7由来の世界を繰り広げながら、遂に創業100年を超えたモトグッツィ。
創業の地、コモ湖畔のマンデーロに根ざしたまま、新たな次元へと踏み出す、その名もV100 マンデーロがリリースされたばかり。
唯一無二の個性は、再び他にライバルなき世界へと羽ばたきはじめた。