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起死回生の勝負で2ストを復活したヤマハ
’80年代、スポーツバイクファンは2ストで乱舞した
30年以上のキャリアがあれば、2スト全盛のレプリカ時代には懐かしい以上の思い入れがあるはず。250ccスポーツ、つまり若者でも買えるバイクが、すべてのバイクの中で最速という大革命が起きたからだ。
いまではほぼ姿を消した2スト(2ストロークエンジン)は、一般的な4ストロークが燃焼室に機械的に開閉するバルブがあって、吸気/圧縮で1往復、爆発/排気で1往復のクランク2回転で1行程なのに対し、2ストは燃焼室にバルブを持たず、ピストンが圧縮で上に動いているとき、下側のクランクケース内が負圧になるのを利用して吸気、爆発で下降するときに排気と同時にピストン下側のクランクケースに吸気した混合ガスを燃焼室へ送り込む掃気もしてしまう、クランク1回転で1行程という大きな違いがある。
構造がシンプル、そして6,000rpm(毎分の回転数)だと4ストが1/2の3,000回爆発に対し、6,000回爆発と出力が稼ぎやすい特性から、50ccから125ccなど小排気量エンジンでは圧倒的に優位で、日本のバイク創成期だった1960年代まで、唯一ホンダ車を除き250cc以下はすべて2ストだった。
ただガソリンと空気で噴霧状態になった吸気がクランク回転部分に触れるため、潤滑油に浸しておくことができず、燃料にオイルを混ぜたりするため燃焼室で一緒に燃えて排気に白煙や臭いがつきやすい。
これに1970年からアメリカで始まった厳しい排気ガス規制も加わって、1975年にはEPA(環境保護庁)によって2ストロークが性能を一気にダウンせざるを得ない事態に陥った。
1960年代後半にヤマハYDS3、スズキT20、カワサキA1など日本製2スト250ccが、英国トライアンフやBSAなど超一流650ccスポーツモデルと肩を並べるトップスピードと、緻密で美しいクオリティで世界のスポーツバイクマーケットを席巻していた勢いを失うという大ピンチを迎えたのだ。
もう2ストは要らない、排気ガス規制に対応したバイクは終焉をイメージさせた
1976年、ヤマハは250ccから350ccが人気の中心へと移ったのを機に、人気だったRD350を排気ガス規制への対応を前提に排気量をアップしたRD400がデビュー、しかし徐々に厳しくなる規制に伴って年々性能というかスポーティなフィーリングがスポイルされていった。
きわめつけが1979年型。シリンダーヘッドがカーバーで覆われ、走行風をラム圧にして冷却性能を高めた(つまりパワーアップしたイメージ)RD400は、すでにスポーツとしての熱い刺激が皆無とそっぽを向かれ「2スト、終わった」と烙印を押されたのだった。
ヤマハはすでに1970年から4スト650ccのXS-1をはじめ、750cc、500ccとそのレンジを拡げていたが、1977年にはXS250/360でポピュラーなスポーツバイクの4スト化にも手を付けていた。
しかし血気盛んな頃の2スト250ccを知るヤマハのエンジニアたちは、あの胸のすくような2次曲線的な加速フィーリングは、4ストには絶対に出せない、もう一度ファンが待ち望んでいるに違いないヤマハらしさをアピールする2ストスポーツをつくろう!と、ありったけの技術と情熱を注いだプロジェクトがスタートしていたのだ。
RD400 1979年
シリンダーヘッドに走行風をラム圧で冷却効果を高めようとするエアダクトが一体化され、デザインも4ストスポーツに近い大人向けを感じさせる
XS360 1977年
650ccのXS-1でスタートしたヤマハの4ストロークエンジンも750cc、500ccと拡がり1977年にはポピュラーな250/360シリーズにも波及していた
これってホントに市販車?ヤマハファンならずとも衝撃を受けたRZ250のデビュー!
1979年9月のパリショーに、突如登場したRD250LC/RD350LC(RZ250/350の輸出名称でLCはリキッドクールの水冷を表していた)は、世界GPで他メーカーのワークスマシンさえ及ばないチャンピオンマシン、市販レーサーのヤマハTZ250/TZ350と同じ水冷エンジンを搭載したマシン、いわゆるレプリカと称されるハイエンドバイクだった。
ポピュラーな250/350ccクラスに、そんなGPマシンテクノロジー直系のバイクが登場するなど誰も想像できなかっただけに、世界中から注目を浴びたのはいうまでもない。
続く東京モーターショーでは名称も国内向けにRZ250と、よりTZ250のイメージがオーバーラップした車名となり、ファンの目は釘付けになった。
水冷エンジン、しかもワークスマシンにだけに施されていたホワイトにレッドのヤマハカラーを縁どる黒のピンストライプ、そしてそしてマフラーが何と黒くペイントされたレーシングマシン用の膨張室で真ん中が膨らんだ、いわゆるチャンバー(エクスパンションチャンバーの略)と呼ばれるレーシングパーツがそのまま装着されていたのだ。
スポーツバイクのマフラーは、メッキのストレートなシルエットが当たり前だったそれまでの常識を打ち破る新しさに満ち溢れたRZ250の仕様は、世界GP人気の高まりとがオーバーラップして、2スト完全復活を高らかに宣言していた。
そしてRZ250に刺激され、2スト250は戦国時代へと突入していったのだ。
Vol.2につづく
RZ250 1980年
250市販車では初の水冷を象徴するラジエーターと冷却フィンのないのっぺりしたコンパクトなシリンダーがハイエンドマシンの証し
RZ250 1980年
白に赤のヤマハレースカラーは、ワークスマシンにだけ施されていた黒ピンストライプがマニアの心をくすぐった