大それた挑戦なんぞ考えられない小心者だったけれど「好き」な道に集中するココロは鍛えられていた……

1973年9月、全日本ロードレースが開催されている筑波サーキットの最終コーナー。2位を走るボクはチェッカーフラッグ目前だった。
ビビリーなくせにロードレースに憧れ、まさかのカワサキ系サテライトチームに潜り込めたラッキーから、命拾いの大怪我を経てメーカー系チームに訣別、手当たり次第にバイトで稼ぎプライベート参加で全日本頂点クラスを2シーズン過ごした。

このチェッカーで、最終戦の鈴鹿を待たずに執念で粘った全日本チャンピオンになれる!
チェッカーフラッグを過ぎた瞬間、「ヤッター!!!」とこみ上げてくる感動の嵐に涙する……はずだったのに、直後の第1コーナーをゆっくり曲がりながら、想像もしてなかった空虚な気持ちしかないことに気づいた。
続く第1ヘアピンを低回転で左に曲がりながら、なぜかアタマに浮かんだのが「パドックへ戻ったら、オメデトーの祝辞と同時に、次の目標は?って聞かれるんだろうなァ」だった。
全日本の頂点クラスで初のプライベート・チャンピオン、その目標に向かって心を燃やし続けてきた。
ところがいざ夢が叶うと達成感など一瞬だけ、かといって次の目標がすぐ思い浮かぶでもなく……とかグルグルしてたら第2ヘアピンを立ち上がってしまった。

400メートルのストレートを走ったら最終コーナーからピットロード。聞かれたら何を言おうか、ン~、さすがにプライベートで世界GPは考えられないし、とか妄想しているタイミングでピットロードからパドックへ戻ってしまった。
「ネモっちゃん、オメデトー!!!」バイク雑誌の編集スタッフたちが、頭や肩を叩きながら祝福してくれる。
で、やっぱり誰かが言い出した「次の目標は?」にヘルメットを脱ぎながら『そりゃ世界っきゃないっしょ』「エッ、世界もプライベートで?」『当然でしょう』……何と無責任な思いつきを口にしてるんだ、内心は後ろめたさも感じたが、言い出しちゃったからには、勢いで言っちゃったけどやっぱ難しいっす、となるのはカッコ悪い。
プライベートでスポンサーに頼って全日本の最高峰クラスを走るなんて、思いついた頃は前例もアテもない状態だったけど、何とかなったんだから、また何とかなるかも。
ということで、心のどこかには夢として存在していた「世界GP」へ行くしかない状況へ自分で追い込んでしまった。

ボクは16歳でオートバイの世界へ飛び込んでから、先がまったくわからない日々ばかり。高校へ通いながら、下町のバイク屋さんに集まってくる年上のお兄さんたちとのバイク談義の楽しさを知り、いつの間にか店を手伝いバイクをバラしたり組んだりも覚えたけど、こうやっていれば先々プロのレースライダーになれる道があるのかもわかっちゃいなかった。
飛行機が好きで機械工学のアタマだったから、工学部を目指して進学すれば、という将来を家族や学校仲間からみられていたけれど、働く若者たちが集うリアルな毎日に、将来を考える空気なんぞ存在しない。
父親には、そうやってオートバイに乗って時間潰しで過ごしてたら、ロクな人間になれないゾ、と言われたことへの反発も含め、アテもない過ごし方に不安を感じない訓練ができてたともいえる。
だから最高峰クラスの全日本チャンピオンになれたからといって、仕事としてレースのプロで暮らせるとも思っていなかった。

じゃぁ将来どうするの?は、ガールフレンドの家業が下請けで、そんな家の事情を汲んで東京から群馬へお嫁に行ってしまうとき、彼女の母上から「キミにはどうにもできないんだよね?」と確かめられて、はじめて身につまされたくらい。
でもバイクだけはやめない、その「決意」は動かなかった。というか、決めてるのはそれだけで、あとはそうやっているうちに巡り来る「運命」に身をまかせて暮らしていたのが正直なところ。
ビビリーで神経質で不安だらけな性格のくせに、実は大雑把で深く考えない、そんな実態をずっと自覚していなかった。
とはいえ、世界GPで転戦するという暮らしがどんなものなのか、全く想像すらできていない。何より全日本を追いかけるのとは、比べようもないほどの大金が必要なはず。
だがここでも「運命」が味方した。MFJのMVP選手には、当時PAN AMERICN航空の世界一周チケットが贈られ、これを使ってアメリカはデイトナでレース観戦、そこで仲良くなったフランス・ヤマハのチームを頼ってフランスでソノート・ヤマハの発表会に招かれたり、フランス国内のレースへ手伝いを兼ねて同行しているうちに、ヨーロッパ転戦にはトランポやキャンピングカーの暮らしが必須だったりと、色々具体化するのに欠かせない情報が収集できたのだ。

時代はちょうどドラムブレーキからディスクブレーキへの転換期、ホイールもスポークからキャストへ先進国のヨーロッパは次々と採用していた。
他にも市販レーサーでも、見たこともないような特殊パーツのオンパレードで、マシンのハードに手を付けるのが好きな性分には、日本でなんか走っていられないゾ!とココロに火がついたのだ。これは「運命」としか言いようがない。
帰国してヨーロッパでレースに出るには……の準備に取り掛かった。調べるほどに、現地でトランポからキャンピングカーまで揃えるのはコストも時間もない、最初はバンの中にマシンを積んだままコンテナで送れば、そこそこ節約できて何とかなりそうだ。宿泊はテントを積んで、そこで寝泊まりが可能なパドックの状況もわかっていた。
さらにヨーロッパ視察で、ロンドンに友人ができてスポンサーへの道筋もつきそうになっていた。はじめれば何とかなる、全日本チャンピオンを獲得したことも後押しとなって、バイク業界のテストや雑誌の執筆など独占に近い依頼をうけ遠征資金を稼ぎまくった。
いちばん困ったのが、ヨーロッパ各国の世界GP主催者へのエントリー。まずはインターナショナルライセンスが、メーカーのライダーではないボクには保証人がいないのを理由に発行できないと言われたのだ。ちょっと待ってヨ、だったらMFJの事務局長が保証人してくれるべきでしょ!とゴリ押ししたり、トランポに積んだマシンを国境で通過させるのに「カルネ」が必要で、それがJAFから発行されるので手続きしたりと、とにかく他のことなど全く考えず、無我夢中で準備に日々を費やしていた。

1975年の3月、資金繰りから先ずは5レースだけ世界GP転戦を体験しようとトランポをコンテナに載せに埠頭から送り出し、5月にドイツのハンブルグへ飛び、コンテナから荷卸しをしてメカニックひとりと最初のレースとなるベルギーへ向け出発、北欧から英国までのレース巡業をスタートさせた。
地図の睨めっこでアウトバーンを走り、各地へ辿りつくので精一杯になりながら、とにかく第一歩をはじめることができた。
ベルギーのフランコルシャンのパドックでは、見たこともない日本の小さなトランポに、テントで寝泊まりする日本人ライダーは注目を浴びた。そのおかげで、世界チャンピオンたちからアドバイスをもらい、フルシーズンを闘うようになれたときも、知らないコースを数ラップで概要を掴み、すぐセッティングをはじめるライディングの基本テクニックや、マシンのチューニングに至るまで、郷に入っては郷に従えの諺どおり、現地のチームと同じようなライフスタイルに溶け込んでいけた。
「決意」はきっかけでしかない、後は「運命」の指す道筋を歩み、やりたい一心で無我夢中になればイイ。考える時間や余裕は、やりたさの妨げでしかない。バイクと出逢ってなければ、こんな人生にならなかったかも、そんな思いをいまも噛みしめている。
※本文は采女華さんが主宰するフリーマガジン「Booyah #11」に寄稿した内容です。

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