終焉といわれた2ストを甦らせるヤマハ25年の集大成!
1980年、世界中を震撼させたRZ250がデビューした。
1955年に125cc単気筒のYA-1がオートバイ生産の第1号だったヤマハ。
それから世界のトップブランドへと押し上げたのが、繋いできた2ストローク・エンジン技術。
それが排気ガス規制などで、1970年代中盤を過ぎると軽くてシンプルな高性能という2ストロークの鋭さは削がれるいっぽうだった。
時代は4ストローク化……ヤマハでも急ピッチで4ストの開発は進んでいた。
しかしこのまま2ストロークを終わらせるのではなく、25年の集大成として誰の記憶にも残る最高の2スト・スーパースポーツを世に出そう!
この号令でスタートしたのがRZ250プロジェクトだった。
GPマシンYZR500のカラーリングを纏う
当時は世界GPでヤマハの2ストマシンがすべてのオピニオン。
デザイナーはそのヨーロッパに滞在し、レースシーンで人々を熱くするヤマハのイメージを把握することからはじめていた。
ヤマハはレースで白に赤ストライプがイメージカラー。
ただ先行開発するワークスマシンYZRは、この赤帯の外側に黒もしくは濃紺のピンストライプをいれていた。
RZ250はレーシーなルックスもさることながら、ご覧のようにピンストライプが配され、レースファンはこのワークスマシン直結な演出にまずやられたのだ。
同時に繊細な白赤ツートンのみではなく、男気を感じさせる黒赤ツートンにゴールドラインも超人気だったのもご存じのとおり。
初のチャンバーマフラー!
2ストの高性能化に欠かせない、レーシングマシンから直接のフィードバックで水冷化を進めていたヤマハ。
これに伴いマフラーは、量産市販スポーツバイクでは初のレーシングマシンと同じチャンバー・タイプを採用。
これは燃焼室に機械式のバルブを持たない2スト特有のマフラー形状で、排気管を大きく膨らませて(エキスパンション・チャンバー)、燃焼爆発で吸気が吹き抜けない効果を得るレーシングエンジン・テクノロジー。
以後、チャンバーといえば、4ストの集合マフラーと並んでカスタム定番のパーツとして大流行。
実際この'70年代に、世界のトップクラスで闘うヤマハ市販レーサーでも、'71年の空冷TD3から'73年には水冷化されたTZ250となり、その後リヤサスをモノサスとした'76年型へと進化していたのだ。
これを追いかけるように、市販車でも空冷のRD250から、1980年の水冷RZ250へと一気に進化することになった。
ワークスマシンのクオリティでフレームを設計
水冷2スト2気筒に、最新テクノロジーのありったけを注ぎ込むだけでなく、RZ250は車体にもとんでもなく次元の高い手法を採り入れていた。
それがダブルループ・クレードル・フレーム。
ヤマハは'60年代からワークスマシンには、最高のフレーム取り回しといわれた、メインパイプがエンジンを取り囲んでステアリングヘッドへ戻る、このコンパクトさが強度となる絶対優位な方式を採用してきた。
いっぽう市販車は、この湾曲した加工が難しいことから量産に向いた、メインパイプがエンジン下からリヤサスが取り付けられるシートレールと結びつく、逆台形のレイアウトが一般的で、ヤマハでは市販レーサーもこの方式。
しかしRZ250では、量産に向いていないダブルループ・クレードルとする、まさにありったけの手法を贅沢を惜しまず突っ込んでいたのだ。
リヤサスが見えない!そして最強350も登場!!
さらにRZ250は従来のリヤサスの位置に何もない、カンチレバー方式のモノクロス・サスペンションを採用。
車体の中心近くにマスを集中させ、バネレートが2次曲線的に強まるアグレッシブ方式としていた。
この他にもエンジンマウントを、トルクアームでフレームと結ぶオーソゴナル・マウントとして振動を軽減しつつフレーム強度に依存しない、GPマシンでも最新の手法を早くも採り入れるなど、本当にありったけの最新テクノロジーを注ぎ込んでいた。
そして続いてRZ350も投入。250でもナナハン並みといわれていたのが、まさにキラーとしてワインディングを凌駕する存在となっていった。
このありったけ……に、ライバルも対抗手段を講じざるを得なくなり、この直後からレプリカ時代、そしてHY戦争へと雪崩を打ったのだった……。