HONDA
CB750F
1979~model
CB750Fが放ったオーラは、スーパースポーツのカッコよさを完全刷新する画期的なものだった!【このバイクに注目】
‘80年代突入の反転攻勢に込めた、ホンダの新しさをアピールしたオリジナリティ
CB750F 1979年
世界GPの気筒数やミッション段数を制限する1967年の発表に、レースは走る実験室を標榜していたホンダは撤退を表明、その直後にデビューしたのが量産車では初の4気筒エンジンを搭載したCB750フォアだった。
まさに多気筒化の高回転高出力マシンで、世界GPを全クラス制覇したホンダを象徴するスーパースポーツの登場に世界中が湧き上がった。
しかしこの大勝負に出た裏には、4輪でアメリカのマスキー法という厳しい排気ガス規制をクリアすれば、ホンダが一躍クルマメーカーとして認められるチャンスに賭けるため、全エンジニアを集結して2輪開発を暫し休止する作戦が進行していたのだ。
CB750Four 1969年
CB750Four 1969年
世界を震撼させたCB750フォアから9年、DOHC化だけでは足らないという声に応える
そして実際に、CB750フォアをスケールダウンした4気筒、CB500フォアやCB350フォアが続いたものの、大型スーパースポーツのNewモデルはなく、カワサキZ1やスズキGS750などに先行を許す状況が続いた。
CB750フォアは集合マフラー採用などマイナーチェンジを重ねたが、既に新しさを失った魅力に乏しいモデルにしか見られていないのは誰の目にも明らか。
そこへマスキー法をクリアするCVCCエンジン開発を終え、世界GP復帰宣言に続きCB750を待ち望まれたDOHC化したCB750Kの発表、さらにはCX系VツインにVF系V型4気筒による留守中のお返しとばかりに矢継ぎ早の猛攻がはじまったのだ。
CB750FOUR-Ⅱ 1977年
CB750K 1978年
ただ次に控えしVツインやV4を知らない当時のホンダ海外ディーラーからは、DOHC化されたとはいえトラディショナルなデザインのCB750Kに対する評価が厳しく、とくにヨーロッパではこんな田舎臭いデザインはアメリカでしか通用しないと酷評だった。
そこでホンダは都会的なユーロデザインへのチャレンジを急遽決定、CB750F(後にCB900Fも加わる)が追いかけ発表となりKとの併売がスタート、スーパースポーツのカッコよさの規準を根底から覆す画期的なデザインは爆発的な人気と、ホンダのアドバンテージを瞬く間に取り戻したのだった。
ロングタンクにアルミのバックステップ、アルミハンドルとカメラの巻き上げレバーにコクピットメーター、マイノリティなカフェスタイルに都会的なライフスタイルを融合、メジャーなルックスへ変貌させた魔法に人々は酔いしれた
英国にはロッカーズ系の、ノーマルな燃料タンクのままセパレートなドロップハンドルにロングシートの庶民カルチャー・カフェスタイルが存在した。
しかしその英国でも、ノートン系などスタイリッシュで洗練された都会派カフェスタイルが、富裕層のライフスタイルとしての趣味性と認識されていて、フランスやスイスにドイツでもそうしたスペシャルマシンをカスタムメイドする工房が存在していた。
CB750Fはまさにその潮流をさらに洗練させるカフェレーサー専用でもあったバックステップを総アルミとしたり、その後退したステップ位置へチェンジペダルにリンクを介したレーシーな機構とするなど、それまではカスタムパーツで量産車には採用されないスペシャル感が満載の仕様を詰め込んだのだ。
同時にライフスタイルとしての新しい共有感を融合させるため、他の趣味、たとえばカメラの一眼レフ機のフィルム巻き上げレバー形状を、キャブレターのチョークレバー(始動時に使う混合気を一時的に濃くする仕組み)に採り込みハンドル左基部へマウント。
ハンドルもパイプではなくアルミのキャスティングとしてブラック塗装、メーターは飛行機の計器盤をイメージした指針デザイン、さらにはコクピット感を出すため従来の上から覗く角度ではなくライダーの顔へ向けた傾斜に設定するなど、スーパースポーツを一部の濃いマニア向けイメージから、都会派の万人向けへ裾野を拡げる意図が込められていた。
世界GP撤退後にマイノリティ耐久レース参戦、大人ライダーの心を掴んだRCB1000の感性
CB750隅谷守男マシン 1973年
RCB開発途上マシン 1975年
DOHC化したRCBのエンジン 1975年
このCB750/900Fを爆発的にヒットさせたもうひとつの要因として、世界GP撤退後に本丸の開発陣ではなくサテライト的なRSC(一般向けレースパーツ供給)や英仏の海外ホンダでモータースポーツへ心血を注ぐ人たちによる、CB750フォアの耐久レース参戦が功を奏していたのは間違いない。
はじまりはデイトナ200マイルを走ったCR750だが、全日本でも隅谷守男選手が走らせたRSCチューンの経験値をベースに、1975年には世界選手権耐久レースへCB750フォアをDOHC化したRCBが参戦を開始、ホンダ本体がレース活動から一切の手を引いていた状況でも、英仏でのホンダ人気を支える大事な役割を担っていた。
ヨーロッパの耐久レース人気は、世界GPに熱くなるファントは一線を画した、ツーリング歴を重ねるビッグバイク好きの大人が集う場所としての位置づけがあり、安定した濃いファン層の獲得に繋がっていたのだ。
そしてこのDOHC化エンジンの活躍が、CB750/900Fの開発をスピードアップし、販促効果としての周知が後押していた。モータースポーツ好きの心が、ときとしてメーカーを支えることに繋がる例として忘れられない史実のひとつだ。
都会的にまとめるメジャー感を武器に、レースシーンでも横綱相撲を定番にする強さ
フレディ・スペンサーのAMAスーパーバイク参戦 1981年
エンジンをブラック塗装 1982年
カウリングを装着したインテグラ 1982年
アメリカでも市販スポーツバイクをメインに据えたAMAのレギュレーション変更で生まれたスーパーバイクのレースで、フレディ・スペンサーがライディングするCB750Fが横綱相撲的な圧勝で人気を集めていた。
こうしたメジャーな流れに耐久レースイメージも加わり、フルカウルのインテグラが誕生するなど、CB750フォアからのホンダインライン(並列)4気筒神話は完全復活、V型4気筒を高性能化の象徴として推し進めるいっぽうで、多くのファンに向け次世代での並列4気筒開発も継続されてきた。
CBの名が並列4気筒を意味してきたイメージも、儚く消えようとしている昨今だが、ドラマチックな熱い心に支えられたCB750/900F伝説は、ホンダのモノづくりの原点を象徴する不滅のストーリーとして語り継がれていくに違いない。