SR400/500の後継ではない、オトナの趣味性が直感できるスーパーシングルを目指した!
シングルスポーツといえば1978年にデビューしたレジェンドSR400/500が代表格。
それが'80年代に入るやスポーツバイクはパフォーマンス(性能)追求一辺倒になり、新規のメカニズム搭載競争に明け暮れていた。
そんなとき、SR400/500の後継機種の検討がはじまり、次は雰囲気重視ではなく本格派のシングルスポーツ、ギミックなメカや装備をいっさい排除した、こだわりを感じさせる大人向けをつくりたい!というコンセプトに集約、このふたつを標榜したエンジニアとデザイナーは、妥協せず「オトナの闘い」に終始したという。
それはDOHCならエライといった風潮へ一矢報いるため、ベースとなったオフ系XT400/600のエンジンはSOHCのままが当然と議論にもならない「オトナぶり」。
キック始動のみの設定は、デコンプ(始動用に圧縮を抜くバルブ解放メカニズム)連動でさえベテランには不要?と躊躇したほど。
潤滑系統がドライサンプのため別体オイルタンクをシリンダー直後として、マスの集中化による運動性向上を狙ったコーナリング追求に徹している。
キャブレターは当時のビッグシングルのトレンドになりつつあったツインキャブ。
可変ベンチュリーの負圧タイプとダイレクト操作のVMタイプとの組み合わせで、レスポンスの良さと急開でも遅れない操作性を得ていた。
マフラーはエンジン下にチャンバーを設け、そこで距離と容量を稼ぎサイレンサーを極端に短くデザインすることで、マスの集中化と低重心見た目の新しさでも際立っていた。
トラクションの強いエンジン特性と、扱いやすい安定性を感じるニュートラルよりややアンダーなハンドリングに設定、キャリアの豊かな開発陣ならではの本格派揃いが追求する、ヤマハ・ハンドリング具現化への労力を惜しまなかった。
デザイン面でもエンジンを取り囲む隙間のない角断面パイプのフレームに微妙な湾曲を要求、エキゾーストに焼け色がつくステンレス素材としたり、サイドカバーもアルミ素材そのままの表面仕上げや、3次凹面の燃料タンク、どこにでもある2連メーターを嫌い文字盤が白地のスピードメーターに黒のタコメーターを小径にしたメーターパネル……、辿りつくまでデザイナーとエンジニアで衝突だらけの開発が続いていた。
デザイナーがクレイモデルを休暇中にこっそり持ち帰り、休み明けにエンジニアが見たらさらにスリムな仕上げで設計変更に明け暮れたという逸話があるほどその思い入れは深かったのだ。
こだわるからには……の妥協のないマイナーチェンジはフルモデルチェンジへ!
免許制のこともあり、当初はSRX-4、SRX-6と呼ばせていたように、400cc版も存在。フロントのディスクブレーキを片側シングル(限定車にはダブルも存在、後にダブルも標準化)で、オイルクーラーも省かれていた。
またリリースされると予想より注目度が高く、こだわりの開発陣はシルバーの一択だった車体色にグリニッシュブラックを加え、1987年モデルではハンドリング向上を優先して18インチだった前後輪を17インチ化、ホイールの変更に伴い軽量化を兼ねディスクブレーキをシングルに設定、デリケートに曲面が映えるポーラシルバーの新色もリリース、1988年モデルではさらにラジアルタイヤも装着するマニア向けを意識したマイナーチェンジを重ねていた。
そうした改良は開発陣に次なるステップへの願望を募らせ、1990年にフルモデルチェンジを迎えるのだった。
基本は踏襲されていたが、ドライサンプのオイルタンクがエンジン前側へ移動したり、キックではなくセル始動となったり、リヤがモノサスでデザインもエレガントさから流麗で力強いボリューム感のある方向へスイッチされていたが、何よりインパクトだったのはその走り。
初代が妥協しないアライメント設定で既に完成度は高かったのを、次世代ではより具体的な対応力の幅広さと奥深さが加味された、ほぼ完璧なハンドリングへと高めていた。
しかしそうした進化は、シングルファン(マニア)にはメジャー感が出てしまい好まれないという意外な結果となった。
リヤサスは2本ないとNGで、美し過ぎるルックスは軟派に誤解されがちというのだ。
こうしたファン心理の動向によって、SRX400/600はモデルチェンジによって終焉を早めてしまうことに。
こだわりとは開発陣側だけでなく、ユーザーであるファン心理にも強いこだわり意識が芽生えてくるわけで、シングルスポーツの難しさを象徴している面でもある。